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   by コーヒービーンズストアろじーな

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beans倶楽部vol−017

┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃■⊃  琥珀の媚薬 〜コーヒー雑談
┃      笠戸丸からの始まり 〜「日本のカフェ」
┃━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃■⊃  瞬間冷却で香り・コクを封じこめる!
┃         〜アイスコーヒーの作りかた(2)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛


   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
       【琥珀の媚薬〜コーヒー雑談】  
   ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ∬ __________
■⊃ 【日本のカフェ】(1)
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  最近はカフェブームなのだそうです。そのけん引役がエスプ レッソカフェ! 代表格がスタバなのでしょう。それに加え、イタリア風、アメリカ風、アジア風?、など、なんだかわかんないけど他人事と思えば、こりゃおもしれ〜やと不謹慎なことを言う店主です。それにしても何でもありのカフェ合戦を呈しているようです。
 
それに比べ、街角の喫茶店の凋落ぶりは寂しい限りです。アメリカでは、エスプレッソカフェなるものが業界の三割を占めるそうです。アメリカ好きな日本人がお手本にするとしたらまだ
 まだこのカフェブームは続きそうです。三割エスプレッソカフェが増えた分、街角の喫茶店が消えて行くのかもしれません。
 コカ・コーラが世界を征服、その勢いにブレーキをかけたのが、「カフェラテ」の登場だったと言われます。それなら、スタバが世界征服? 収益率の悪い代表格のこの業界でそれは無理か?

 そんな訳で、今回から日本のカフェを考えてみたいと思っています。と言っても、コーヒーを飲むと云うより情報を飲みにいく、今のカフェ事情ではなく店主独自のカフェ像を紹介してみ たいと思います。


━━ 笠戸丸からの始まり━━
 
 前号で予告した「笠戸丸」のお話しの前におおざっぱに、日本のカフェ時代の幕開けになった「カフェ・パウリスタ」以前を説明します。

 1795年に、長崎の出島に「南蛮人コーヒー飲用」の記録があります。その後、シーボルトによって何度かコーヒーが持ち込まれたようです。1866年(慶応二年)に初めてコーヒーを含めた輸入関税が決まります。明治に入ってペルーから明治天皇に献上されて、1877年に日本に初めてコーヒーが輸入されることになります。1879年には明治政府が小笠原に苗木を植えたという記録もあります。
 そして、皆さんもご存知の1888年下谷黒門町に「可否茶館」が開業し、日本で初の喫茶店の開店です。実際は喫茶店と言うより、茶屋のイメージだったそうです。そして、大正ロマンの象徴的存在として珈琲文化と言わせたカフェ・パウリスタの全盛時代に入っていきます。

 カフェ・パウリスタは誕生から15年足らずで、その面影は歴史から姿を消すことになります。その間、主要都市に展開し店舗数を増やしました。それは大変な繁盛だったそうです。
 それなのに何故、あっという間に駆け足で通り抜けて行ったパウリスタ。大正の世論形成、文壇形成、にこれほど影響を残しながら・・・短すぎる。何故、このミステリーが店主のカフェ への思いの始まりでした。

 カフェ・パウリスタの創設者「水野 龍」とは、どんな人物だったのでしょうか。どうしてパウリスタを創設したのか? これは、ブラジルのコーヒーの宣伝として無償のコーヒーを輸入し、ブラジルの広報のため開業したわけです。この水野 龍とブラジルとのかかわりは何だったのでしょか?

 水野 龍は、明治政府の皇国植民会社(現在の外務省)の社長の職にありました。1900年前半、第一時世界大戦勃発の直前で、日本は農産物の不作が続き不況のどん底であったようです。農家の女の子が身売りさせられて行く時代背景の中で、食べていけない農家の方を中心にブラジルのコーヒーに夢を掛け移民していきました。この移民政策の中心にいたのが、水野 龍でした。
 1908年4月28日、神戸よりブラジルに向けて初めての移民船が移住者781名を乗せて出航したのです。移民船の名前が「笠戸丸」でした。ブラジルのサントス港まで三ヶ月の日数が必要だったようです。これを企画した水野もこの笠戸丸に乗船していました。

 この辺の時代背景と移民の話しに興味のある方は、石川達三薯の「蒼茫」に良く取材されています。

 その三年後の1911年に、銀座宗十郎町にブラジルコーヒー宣伝を目的にカフェ・パウリスタを設立します。
 そのころ、ブラジルに移住した移民たちの生活は、日本以上に苦しく辛いものがあったようです。その移民たちのためにもとの思いが水野の中にはあったはずです。ブラジルコーヒー広報の目的は移民たちへの気持ちの現れだったかもしれません。
 
 そのような背景とは裏腹に「カフェ・パウリスタ」は時代の中心舞台へと踊りでてその輝きは増していきます。その後、大正12年にブラジルコーヒーの無償供与の契約期限が終わるのを境にカフェからは手を引き、譲渡された「カフェ・パウリスタ」は変容し凋落して行きます。その後、水野はコーヒー豆の輸入は続けており、現在は日東珈琲として残っています。

 この光と影の狭間にいた水野は何を考え感じていたのか。これが店主のミステリーツアーの始まりでした。全然カフェの話しと違うと言われそうですのでこの辺で止めることにします。
 カフェの話しでこんなものを持ち出すのは店主ぐらいと思いますが、水野から教えてもらえたのは「フロンティアスピリット」という精神です。店主が何か事あるごとに口にするのがこの言葉です。ブラジルの大地に夢を抱いて神戸から笠戸丸でサントス港へ向かった781人の開拓者達の精神に報いようとした水野の心から日本初のカフェは誕生したのです。
 
 18世紀、イギリスのコーヒーハウスを描写した本によれば゛情報交換、世論形成の場とともに、このコーヒー・ハウスは毎夜多くの人々でいっぱいになる。会う人の殆どは学者であり才人である。ジョークや洒落がボックスからボックスへと飛び交い、あらゆる種類の文学が批評され、あらゆる出版物、あらゆる公演が秤にかけられ評価が下された。″

 と、いうわけで次回は日本で初めてのカフェ、「カフェ・パウリスタ」は何故、情報交換の場、世論形成の場、文壇形成の場になれたのかを推理して行きます。

 次回は楽しい話しです。(^^;; 今のインターネットの世界と良く似ているような気がします。? 
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      【アイスコーヒーの作りかた】   
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 ∬  ____________
■⊃ 瞬間冷却アイスコーヒー
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 前号で水出しアイスコーヒーをご紹介しました。さっそく、反
 響を戴き嬉しく思っています。今回は、淹れたてのコーヒーを
 瞬間に冷却する方法をご紹介します。この方法は少し面倒です
 が、香ばしさはアイスコーヒーのイメージが一変すること請合
 いです。

 ●イタリアンローストの豆を中挽きです。
 ●300ccくらい入るグラスを用意してください。
 ●氷 細かく砕いたもの。

 ◇いつもの量の(140cc前後)コーヒーを淹れます。その
  とき、濃度は倍にします。粉の量を二倍にします。
 ◇氷を細かく砕きます。角氷では上手く冷えません。家庭の場
  合これが問題です。ミキサーを利用してください。角氷をミ
  キサーに入れて少し回してください。量は300ccのグラ
  スがいっぱいになるくらいの量です。
  但し、ミキサーが壊れる心配があります。(^^;;; 心配な方
  は何か氷を砕く方法を考えてください。
 ◇砕いた氷をグラスいっぱいに詰めます。
 ◇二倍の濃度に淹れたコーヒーを一騎にグラスに注ぎます。

 この方法は作り置きはお勧めできません。すぐにお飲みになってください。機会があったら一度お試しください。

 *7月は、「キリマンジャロ AA」をイタリアンで焙煎する予定です。アイスコーヒーやエスプレッソ、もちろんペーパーでも美味しくいただけます。
  __________
  ■アイスコーヒーの効用
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  コーヒーには有益なビタミンであるニコチン酸が含まれています。と言ってもタバコのニコチンではありません(^^;; ビタミンB群に属するもので、欠乏すると神経障害などを引き起こします。このニコチン酸は焙煎が強い深煎り系の豆に多く含まれています。これは、コーヒーに多く含まれるトリゴネリンを加熱することで生じる物質だからです。つまり、アイスコーヒーに使用するイタリアンローストには多く含まれています。
 だから皆さん、夏は体に悪いペットボトルの炭酸類はやめてアイスコーヒーにしましょーう (^^;;;; (脅しの営業かな)







beans倶楽部vol−019
                                                 ∬
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---------------------------------2001.7.11 vol-019 月二回配信
 珈琲の時刻 http://www.c-beans-store.net/                    ∬
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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃■⊃  琥珀の媚薬 〜コーヒー雑談
┃     日本初のカフェは白亜の三階建て 〜「日本のカフェ」(2)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛



┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■⊃ 【 琥珀の媚薬 〜 コーヒー雑談 】 
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■⊃  【日本のカフェ】(2)
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  日本のカフェの幕開けとなった「カフェ・パウリスタ」は、日本初のブ ラジル移民達とその
中心人物であった水野 龍のフロン ティアスピリッ トから生まれたものであったことは前号
で推察しました。今回は、「カフ ェ・パウリスタ」は何をモデルに作られたのか、どのような営
業内容だったのかを推理します。

━━━カフェ・パウリスタ━━━
  カフェ・パウリスタ」はどんなお店だったのでしょう。カフェファンならずとも興味があるところだと思います。

  店がまえは、白亜の三階建てでヨーロッパのカフェを思わせ、南米風を加えたようなもので、正面にはブラジル国旗が、夜はイルミネーションが輝いていたそうです。  店内は、300坪の広さに大理石のテーブルとロココ調の椅子が配置されて、二階は数寄屋造りの女性専用の部屋が設けられていました。このようなスタイルで明治44年12月に一号店が銀座七町目に開店しました。(開店の時期と場所は他に説もあり確定できないようです。)その大義名文は、「南米ブラジル国サンパウロ州政府の委嘱によりブラジルコーヒーの東洋に於ける販路拡張の使命を負ふて東京に呱々の声を揚げた・・」でした。名前の由来のパウリスタは、ポルトガル語で「サンパウロっ子」のような意味のようです。メニューは、どのようなものだったのでしょう。
コーヒーは当然ブラジルで深煎りものをサイホンで抽出していました。値段は5銭でした。お酒も置いてはいましたが主ではなくブラジルコーヒー宣伝に徹底していたようです。また、ドーナツ、サンドウィッチ、アップルパイ、プリンなど低価格で大衆に提供していました。他にも、コーヒーウエハース、コーヒーキャラメル、コーヒービスケットなども試作していました。なかでも当時では貴重だった砂糖を自由に使えることが評判であったようです。サービス内容は、女給はおかず男性のボーイと呼ばれる海軍の下士官風の白い制服を着た少年をおいていました。(この時代、プランタンというカフェはお酒が主で女給をおいていました。後のお話しで比較しますので覚えていてください。)更に、自動ピアノを置いてあったり、アメリカ短編喜劇映画を店内で上映したり、回数券を売り出したり、定期刊行物を発行していました。驚くことは、各種の催し物・学校・集まりなどへの無料出張サービスや上級階級を訪問しコーヒー作法を教授していました。まさに、ブラジル移民達の開拓者精神(フロンティアスピリット)を思わせるような活動が原動力であったように思われます。
このような営業内容で、午前9〜午後11時の開店時間に一日4,000杯のコーヒーを売ったそうです。今流行りのイタリアンカフェでもこれは無理でしょう? それは繁盛していたようです。どうでしょう。どんなお店だったか想像できたでしょうか? そこに集まった人々は、学生、文士、文学好きの会社員などが中心であったようです。そして、ここに集まった人々が大正ロマンの象徴である珈琲文化を形成していくことになります。 カフェ・パウリスタは水野の思惑とは裏腹に、そうした人々によって新しいコミニケーションの場が形成され、文化サロン的な要素が濃くなっていきます。ここで誤解してはいけないのは、コーヒーを提供する場としてのカフェ・パウリスタであってパウリスタが珈琲文化をつくった訳ではありません。そこに集まった人々の意識がコミニケーションの場として文化形成、世論形成となり文化を生み出していったのです。それでは、ここに集った人達はパウリスタに何を見たのでしょう?特筆することは、ここに多くの文士や文学好きの人々が集まっていたことです。
何故、ここに集まったのか? それはそうした人々の意識のなかに18世紀のイギリスのコーヒーハウスの姿があったのでしょう。イギリスのコーヒー・ハウスが英文学のなかで登場するのは主として18世紀前半の文学的背景のなかにおいてです。このコーヒーハウスとカフェ・パウリスタを重ね合わせていたに違いありません。ここからが前号で予告した内容です。が、次号になりそうです。 m(^^)m

  その前に、この時代にもう一つのカフェの流れがあったことを説明しておきたいと思います。先ほどの「カフェ・プランタン」です。ここは、酒類と料理が主で女給を置いていました。次第に女性を目当てにした風俗営業に変化していきます。このスタイルは、イタリア、スペイン、の「バール」・「バル」をイメージしたようです。つまり、「バール、バル」が「バー」の名前に変化したようです。

  カフェ・パウリスタは、イギリスのサイホンを使っていたこともありますが、日本の喫茶店のイメージはつい最近まではイギリスのコーヒーハウスにあったようです。(店主のもっている喫茶店のイメージは「バール」のほうなのですが)日本にはこの二つのカフェのイメージがあります。但し、先ほどもお話ししたようにそこに集う人々の意識によってカフェのイメージは変貌しす。カフェの精神としては、美味しいコーヒーや美味しい料理などはあまり重要な位置付けでなかったようです。むしろ、世論形成、文壇形成などの批評の場であり、誰もが自由に情報交換を行い、批評し秤にのせ、評価がくだされる。そうしたことを大衆が行う場所としての意味があったようです。美味しいコーヒーなどは人が集うための理由やコミニケーションを高める活性の役割でした。人々が集う場所がカフェであり、そこに集う人々のコミニケーションの道具のようにいつの時代もそこにはコーヒーがありました。

  次号は、パウリスタは何故、文壇形成、世論形成の場になれたかを、イギリスの18世紀のコーヒーハウスから推理します。






beans倶楽部vol−021
                                                 ∬
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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃■⊃  琥珀の媚薬 〜コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(3)〜 図書館の元祖はコーヒーハウス?
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛



┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■⊃ 【 琥珀の媚薬 〜 コーヒー雑談 】 
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■⊃  【日本のカフェ】(3)
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  前回は、「カフェ・パウリスタ」の営業スタイルとそこに集った人々の意識をお話ししました。「水野 龍」のブラジルコーヒーの広報活動(笠戸丸でブラジルに移住していった移民達への思い)とは別にそこに集った人々によって水野が思いもよらない展開へ移りって行きます。カフェ・パウリスタは、そこに集った人々によって大正ロマンに代表される珈琲文化を形成していくことになります。

  カフェ・パウリスタはヨーロッパのカフェを模範として創られたものですが、そこに集った人々の意識の中にも、18世紀前後のヨーロッパのカフェ文化のイメージがあったようです。故に、短時間の間に珈琲文化を開花させることが出来たのでしょう。

  それでは、カフェ・パウリスタに集った人々のカフェのイメージだった18世紀前後のヨーロッパのカフェとはどんなものだったのでしょうか?


━━━イタリア初の新聞━━━

  トルコよりベネチアに伝播した「精神の集中を高める黒い水」は港町を中心とした都市を中心に都市文化のオーロラを発しながらヨーロッパ各地に広がります。そのなかに、ヴェニスの「フローリアン」があります。ヴェニスのサンマルコ広場に1720年に開店したフローリアンを記述したものによると、 
 
 ”カフェは、熱狂的なコーヒー飲みが集う場所ではなくて、しばしば創造的な人達のために一種の仲介の役割を果たしていた” とあります。

 また、 ”いわばヴェニスの公共施設とでもいうべきフローリアンの前を素通りするものなど誰もいない。あらゆる日常の用件を片付ける本当に持って来いの場所である。”    ヴェニスの人達は、「アンデモ・ダ・フローリアン」”フローリアンへゆこう” を挨拶にしていたのだそうです。このフローリアンでカスパロ・ゴッツイ伯は、イタリア初の新聞の草稿をつくり、それをすぐさまその場で人々に配った話しは有名です。

  また、ローマのスペイン広場に1786年に開店したカフェ・グレコは郵便局の役割を果たしていたようです。ここはゲーテをはじめとしたドイツ、スカンジナビアの画家・文士のたまり場だったようです。

  「セビリャの理髪師」、(フランスの作家ボーマルシェの風刺的な喜劇に基づき、イタリア語のオペラ台本として書きなおされたものです。原作は、1772年作、フランス革命直前の貴族特権階級に対する痛烈な風刺を含み、また、解放への憧れを描き出したものです。)の登場人物「ロジーナ」についても、カフェに集ったあらゆる人々によって批評され評価が下されたに違いありません。 (^^;

  また、ヨーロッパのカフェの模範とされたウィーンのカフェは1684年に、酒類・食事類は置かない、ゲームと会話のカフェとして開店しました。そして、「カフェ店主」という職業名ができたそうです。

  現在で言えばコンビニの便利差でしょうか? そんな役割の他に、もっとも重要な事はどのような階級の人でも自由に、世間一般の問題や個人的な問題について、財政や文学のこと商売やその情報交換や訴訟のこと、学問や芸術のことについて批評し語り合った場所であったようです。

  ウィーンの1860年に開店した”カフェ・ツェントラール”ここに居ついたと言われる詩人ペーター・アルテンベルクの詩の中にこんなものがあります。

        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
    あれやこれやと悩みが尽きないなら
                     カフェへ行くことさ !
    
    彼女がとやかく何か、まことしやかな理由で来れないなら
                     カフェへ行くことさ !

    ブーツがぼろぼろになったのなら
                     カフェへ行くことさ !

    給料が400クローネで支出が500クローネなら
                     カフェへ行くことさ !

    まこと慎ましく暮らしているのに、何の得にも恵まれないのなら
                     カフェへ行くことさ !

    気の合う女が見つからないのなら
                     カフェへ行くことさ !

    心の中は、もう自殺に追い込まれているのなら
                     カフェへ行くことさ !

    人を嫌い軽蔑しながら、それでも人が居なくちゃ困るなら
                     カフェへ行くことさ !

    もうどうにもつけが効かなくなったら
                     カフェへ行くことさ !
        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  思いを馳せてみてください。18世紀のヨーロッパのカフェに・・・

  この時代のカフェは、情報交換の場、世論形成の場、文壇形成の場といった特徴が上げられています。それらがどんなものだったのかは、イギリスのコーヒーハウスが一番わかりやすく説明がつきます。


━━━コーヒーハウス━━━

  ヨーロッパのカフェは、都市を中心に広がりをみせます。イギリスの場合は、地方から都市へと広がったところが興味深いところです。1650年オックスフォードにはじめて出現したコーヒー・ハウスは、二年後にロンドンに登場します。

 ■情報源と貸し本屋としてのコーヒーハウス

  18世紀の初期のイギリスでは、二千軒を終えるコーヒーハウスが謳歌していました。コーヒーハウスの人気の秘密は、コーヒーそのものよりそこに置かれていた新聞や雑誌にあったようです。今の時代であれば新聞や雑誌は差ほど魅力のある情報源ではありませんけど、当時は重宝なものであったようです。
 
  どのコーヒー・ハウスにも何種類かの新聞や雑誌があり、二三軒も回れば、多くの情報を手に入れることができたのだといいます。

  その辺の事情を描写したものによると 「これらコーヒー・ハウスはじつに重宝なものだ。そこにはあらゆる種類 の情報がある。コーヒーを飲み、商取引で友人と会う。これらすべてが1ペニですむ」とあります。 この1ペニという低価格で重宝な情報を得られる持ってこいの場所としての価値が人気の秘密であったようです。

  また、コーヒー・ハウスはまた、新聞にニュースソースを提供する場所でもあったようです。「町の最新のうそ」を集めるためにコーヒー・ハウスをおとずれ、集められたゴシップを手書にした新聞もあったようです。正式の新聞がきびしい検閲を受けた時代に、人々がもっとも興味を引く情報だったのでしょう。

  何故、コーヒーハウスに新聞や雑誌を目的に集まったのか? 当時、新聞は3ペンスから6ペンスしたようです。これがコーヒー代金の1ペニで何種類も読めたわけです。

  コーヒーハウスに置いてあったものは、新聞や雑誌に限らなかったのです。大袈裟な推測かもしれませんが、あらゆる読み物が用意され特別に読書室を設けたコーヒーハウスもあったようです。相当程度の知的好奇心を満たす読書の場として利用していたのです。このコーヒーハウスから貸し本屋、そして図書館へと変化したという説もあります。


  なかなか前に進みません。m(--)m 次回も、イギリスのコーヒーハウスの話しです。情報交換の場、世論形成の場、文壇形成の場を具体的に説明したいと思います。興味のない方も少しだけお付き合いお願いします。(^^;; 









beans倶楽部vol−023
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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃■⊃  【琥珀の媚薬】 〜コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(4)〜 1ペニ大学? 
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛



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■⊃ 【 琥珀の媚薬 】〜 コーヒー雑談  
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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■⊃  【日本のカフェ】(4)
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  前回は、18世紀前後のヨーロッパのカフェがどのようなものだったのか? 人々が集った
理由を推測したつもりです。日本のカフェの話しじゃないと言われそうですが、もうしばらくお付
き合いください。パウリスタを語るとき、そこに集った人々の意識を推測するには18世紀前後
のヨーロッパのカフェは避けてとおれないと思います。
  今回は、イギリスのコーヒーハウスからそこに集った人々の意識で特筆すべきことを上げて
みたいと思います。
 

━━━1ペニ大学━━━

  前回後半、イギリスのカフエ、コーヒーハウスの概要をお話ししました。今回はもう少し具体
的にお話ししてみたいと思います。

  コーヒーハウスの特徴は大まかに、ジャーナリズムとの関係、情報交換・世論形成として
の役割、文壇形成としての役割、読書の場としての役割が上げられます。 そのなかでも、
18世紀から19世紀にかけてイギリスの出版界に大きく影響を与えた功績が評価されている
ことはご存知の方も多いと思います。
  これは、当時ブックセラーとコーヒーハウスの攻めぎあいの中から現在の出版界の姿が形
成されたとされています。  当時、ブックセラーは出版と書店の両方を兼ねていて、いわば
独占企業だったものがコーヒーハウスの台頭によって本や新聞などを安く読める場所がブック
セラーを危うくしたものです。

  1650年にオクッスフォードに誕生したコーヒーハウスは、17世紀には大学街にあらゆる
ジャンルの本などを置き、読書室を持った店が出現しました。この時代のコーヒーハウスを描
写した文章に....
 
  本を置いたコーヒー・ハウスはこの大学街にも何軒かあり、それらはいまの時代の活字ば
なれを阻止するのに役立っている。ギリシャ語やラテン語が読めない学生にとって大いなる救
いであり....そこにはすべて英語で書かれた本が置いてあった。....また漫然と時間を
過ごすという最も教育効果のある習慣を助長するのにも一役買っている。.....そこに置か
れている蔵書は、詩、小説、雑誌、文芸誌、政治的パンフレットなど何でもあるが、多くは趣
味の悪い読み物である。にもかかわらず、「本を全然読まないよりは、なんの役に立たぬ本を
読むほうがまし」でありコーヒ・ハウスのおかげ「教育と娯楽が手を組んで、学問が無味乾燥
な営為でなくなった」........
 
  多少、皮肉が混じっている気もしますが、大体はこのようなものであったようです。これが
、コーヒー一杯1ペニで得ることができたわけです。大学の近くのコーヒー・ハウスが「一ペニ
大学」と呼ばれたのもうなずけます。

  当時、新聞は1712年には一部一ペニ、1776年には三ペンス、そして1800年頃には六
ペンスと上がっていきます。相当の金持ちでないかぎり定期購読はおろか、数紙を同時に読む
ことなどおよそ不可能なことでした。それがコーヒー・ハウスでは一ペニのコーヒー代で思う存
分読むことができたわけです。

  つまり、階級をとわずあらゆる人々が目にできたはずの新聞や本が価格の上昇によって排
他的になり、特定の人間のものになってしまったものを一喝するようにコーヒーハウスが出現し、
大衆がとり返したのでしょう。

  そして、ジャーナリズムの発生を促し情報交換の場を生み、次ぎに世論形成の場の役割を
果たしていきました。「規模は小さいながら社会革命をもたらす」と言った人がいたように誰もが
自由にものを言い、情報を得て社会に少なからずも影響を与えるまでの場であったのでしょう。

  こうしたコーヒーハウスにも、「独自の社会的目的をはたすと、もはやその必要がなくなった
」のたとえのごとく、少しずつ排他的になっていきます。皮肉なもので排他的なものへの挑戦の
ように出現したコーヒーハウスも自らその道をたどることになります。


━━━特定の人間のための溜まり場━━━

  当初の民主的性格が薄れ、特定の人間が集まり特定の批評の場となっていきます。つまり
、特定の人間の溜まり場としての役割です。
 どのようなコーヒーハウスがあったかというと

  銀行家や商人の集まるコーヒーハウス、医者が集まるところ、政治家の特定の党員が集ま
るところ、弁護士が集まるところ、などです。そのなかでも、文士や劇作家が集まる場所はイギリ
スの文学や出版界に大きな影響を与えたようです。そうした文士や劇作家が集まるコーヒーハウ
 スを描写したものによると

  このコーヒー・ハウスは毎夜多くの人々でいっぱいになる。会う人の殆どは学者であり才人で
ある。ジョークや洒落がボックスからボックスへと飛び交い、あらゆる種類の文学が批評され、あ
らゆる出版物、あらゆる公演が秤にかけられ評価が下された。

  とあります。
  批評し、評価をくだす場だけではなく、憧れの文士や文学を志すものにとっては、そこはまさ
に夢の場所だったようです。この場所から多くの文士や劇作家が生まれて行ったようです。


━━━紅茶の国へ━━━

  18世紀も半ばになり、コーヒーハウスは急速に衰えます。これは名誉革命後、民主的性格
を失い排他性をさらに強めます。そして、コーヒーハウスはクラブへと変化していきます。なかに
は、酒場や料理の店に変化したものもあります。

  民主的性格をもった時代に1ペニだったコーヒーが、18世紀後半には排他的になるにつれ
6ペニ、1シリングと値段があがっていきます。それとともに紅茶が普及し人気を集めて行くこと
になり、一時コーヒーは姿を消すことになります。紅茶の国、イギリスの始まりです。
  イギリスがコーヒーの国であったことは以外に思われるかもしれません。しかし、コーヒーの
歴史のほうが古るく大衆の飲み物であったのです。
 最近、イギリスでは紅茶が衰えをみセコーヒー復活の兆しがあるそうです。

  コーヒーの始まりは、回教徒の国からヨーロッパに伝播して以来、精神を高める黒い水として
各地で急速に広まります。そこには、飲み物としての評価よりも民主的性格を求める人々が集う
ために、その目的とは別に低価格で得ることができた唯一の飲み物だったのです。

  こうしたカフェの姿は、みなさんがイメージされている現在の「カフェ・グレコ」などのヨーロッパ
の名店の姿ではありません。それは、すでに排他的になってしまった後の名残の姿なのです。

  次号は、コーヒーハウスの後編です。いいかげんにしろ!! といわれそうです。ついでとい
うことで話せてやってください。(^^; m(--)m









beans倶楽部vol−025
                                                 ∬
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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
■⊃     【琥珀の媚薬】 〜 コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(5)〜 19世紀コーヒーハウスの復活 
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■⊃  コーヒー関係、同業者のみなさまへのお願い
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■⊃ 【 琥珀の媚薬 】〜 コーヒー雑談  
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■⊃  【日本のカフェ】(5)
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  日本のカフェからかけ離れて久しいです。今回のコーヒーハウスのお話しが終わったら戻り
ます。今回だけ辛抱してください。

  前回は、18世紀から19世紀初期までのイギリスのコーヒーハウスのお話しでした。民主
的性格でコーヒーハウスが誕生し、除々に排他的になりそしてコーヒーハウスの凋落、そして
紅茶の国イギリスへ、がここ数回のお話しでした。
  今回は、最後に19世紀にはいり再びコーヒーが復活しコーヒーハウスの数が18世紀をし
のぐ勢いで増えていきます。この辺のお話しです。


━━━コーヒーハウスの復活━━━

  19世紀初期(1820年頃)に、ロンドンにあったコーヒーハウスの数は6軒ほどまでになっ
て凋落ぶりはひどいものであったようです。
 その人気と社会的な影響力の点で昔ほどの勢いはなくなっていましたが、コーヒー・ハウス
は依然として存在していました。しかし、コーヒー一杯6ペンスという高価な飲み物であったよ
うです。その数少なくなったコーヒーハウスの殆どが豪華なクラブやホテルといったほうが良い
ほどで、商取引などの場所として利用されていたようです。
 (現在、ヨーロッパ旅行をされて立ち寄る老舗のカフェは殆どがこの類です。)


  それが、20年後の1940年代には2000軒という数に増えたのです。コーヒーハウスの復
活です。
  コーヒーの価格が高くなると排他的になるのか、排他的になるからコーヒーの価格が高くな
るのかは、どちらが先がと言う問題は別にして、コーヒーが低価格であることが復活の一番の
要因であったようです。
 1808年にコーヒーにかけられる税金が軽減されたことが低価格をよび、その時代労働者の
間でひろがりつつあった節酒運動がうまく結びついてコーヒーが飲まれるようになり、コーヒハ
ウスに新しい流れを作ったようです。この酒とコーヒーの関係は、また面白く興味深いものがあ
るのですが、また脱線してしまいますので機会があったときにとって置きます。

  17世紀にはじまり18世紀初期より約半世紀の間、人気をほしいままにしたコーヒー・ハウ
スの人気をささえていたのは、コーヒーそのものの魅力もさることながら、そこに置かれていた
新聞や雑誌にあったことと、そこを利用する者すべての階級を問わなかったことに特徴がありま
した。
 そして、コーヒーハウスが排他的になるにつれコーヒー価格が上がり、さらにはコーヒーハウス
自体が変化していき凋落へとつながる構図でした。
  そして、1940年代に新たに復活したコーヒーハウスの特徴は、以前のものと違い圧倒的多
数の労働者の利用する場であったことです。
  ただ、新聞や雑誌を置いて、労働者に情報や娯楽を提供した点で、よく似ているのです。


━━━労働者のコーヒーハウス━━━

  19世紀初期に復活したコーヒーハウスは、具体的にどのようなものであったかというと。

  18世紀後半に排他的になったコーヒーハウスは、コーヒー一杯6ペンスだったものが、再
び1ペニから3ペンスの低価格になり、朝早くから夜遅くまで600人〜800人もの労働者が訪
れたとあります。
  新しくできたコーヒーハウスの四分の一の店は、付属の図書室を持ち、蔵書冊数2000冊
を数えるところもあったそうです。新聞、雑誌を含め、その購入費が年間100ポンドに達してい
るところもありました。
  以前のコーヒーハウスから変化した貸し本屋が当時全盛を迎えていたのですが、1ギニとい
う会費は、所詮中流階級のものでした。労働者にとって安価な読み物と情報を提供してくれる
唯一の場所であったようです。

  その当時のコーヒーハウスを描写したものによると

  ここで私は雑誌や文芸批評誌があるのを見つけた。その最新号を読むためには月六ペンス
余分に払うことになっていた。「エディンバラ・レヴュー」「マンスリー・レヴュー」、その他「エディ
ンバラ・マガジン」「ユーロピアン・マガジン」「マンスリー・マガジン」などが読めるので私はよろ
こんで払った。これらを私は夕食にもコーヒーを飲むことを覚えたのである。

  以上のことから想像するに当時、労働者の間で節酒、禁酒運動がコーヒーを朝に夜に飲む習
慣を作りだし、低価格で読み物や情報を手に入れるために集ったのでしょう。

  労働者階級の専有物として利用されたコーヒーハウスは、労働者の生活や趣味や意識の向
上に少なからぬ役割をはたし、ひいては「労働者の教育に効果的な唯一の施設」の役割を果たし
ました。またそれは、労働者階級の節酒や禁酒の習慣を助長せしめ、規模は小さいながら社会革
命をもたらすと言わしめることになります。


━━━再び紅茶の国へ━━━

  このような19世紀初期からのコーヒーハウスも、18世紀のもの同様に約半世紀後、1880年
を境に急速に姿を消して行きます。そして現在、みなさんが持っているイメージである「紅茶の国」
イギリスにつながります。歴史は形を変えて繰り返します。

  ここまで、長々とコーヒーハウスを中心にお話しした理由は、日本のカフェ、「カフェ・パウリスタ」
に集うことになるその時代の人々の意識を少しでも推測したかったためです。以上が、カフェ・パウ
リスタ誕生の直前までのヨーロッパのカフェ、特にイギリスのコーヒーハウスの姿です。
  1880年頃を境にイギリスのコーヒーハウスは急速に姿を消していきます。その30年前後、1
911年にパウリスタが誕生することになります。

  次号は、いよいよ(ようやく)日本に戻ります。(^^;;









beans倶楽部vol−027
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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
■⊃     【琥珀の媚薬】 〜 コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(6)〜  
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■⊃ 【 琥珀の媚薬 】〜 コーヒー雑談  
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■⊃ 【日本のカフェ】(6)
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 今年6月にカフェ流行ということで始まった“日本のカフェ”も随分長い連載になってしまいました。“笠戸丸”“水野 龍”“カフェパウリスタ”そして“ヨーロッパのカフェ”とお話を進めてきました。今回から再びカフェパウリスタ”から日本のカフェのお話をしていきます。
  途中から“beans倶楽部”にお入りになられた方で興味のある方はバックナンバーをお送りいたしますのでご連絡ください。

  さて、前回は19世紀初期の“カフェパウリスタ”の開業直前までのイギリスのコーヒーハウスでした。ヨーロッパのカフェの概要とそこに集った人々の意識がお分かりいただけたでしょうか。


━━━パウリスタに集った人々━━━

  随分前のお話でお忘れかもしれません。水野 龍によってブラジル宣伝用の無償のコーヒーが輸入され、ブラジル広報のためにカフェパウリスタが開業されました。そこに集まった人々の意識を推測するために長々とヨーロッパのカフェの話をしてきました。

  水野がパウリスタを開業した理由は、日系移住の始まり笠戸丸に起因していることを推測しました。その目的とは別に都市社会の中に低価格で今まで存在しなかったコミニケーションの場を形成し、大正ロマンの象徴的存在となり珈琲文化と言わしめました。

  ヨーロッパの17世紀から19世紀初期のカフェやコーヒーハウスに集った人々と同じような意識がありました。異国の香のコーヒーが媚薬のようにそこに誘い、集った人々によってまったく新しい都会の場所が形成されていきます。特に、日本の場合は情報交換もさることながら文学の中心的場所として評価があるようです。

  それは、パウリスタが宣伝用に定期的に発刊していた小冊子が文壇形成に役割をはたし、定期的に小冊子を出すことが文化の尺度になっていたのでしょう。そして、その小冊子などで企画された催し物や集会が階級にとらわれずに集った人々によって世論形成に一役かっていたようです。  その企画は文壇形成の場のものではなく、多くの催し物が行われ、中には自動ピアノを初めて紹介したり、ユニバーサルの短編映画を上映して人々を驚かせた記録もあります。

  このようなことは、水野の目的であるブラジル広報のために行われていたわけですが、水野の目論みとは別にそこに集った大衆によって新しい文化形成の場に変容していきます。そして、新しい文化形成の場になったパウリスタは、現在のドトールやスタバに勝るとも劣らない勢いで国内40ヶ所、海外10ヶ所という日本初のチェーン店展開をします。

  まさに、ヨーロッパのカフェと同じく低価格、都会の大衆が集う場所、文化形成、世論形成の場としての役割をそこに集う人々によってパウリスタに課せられました。


━━━パウリスタの凋落━━━

  そのようなパウリスタも、大正12年にブラジルとの無償供与の契約期限の終わりとともに、水野は経営から手を引きます。それは、その年に関東大震災が起こりそれが理由であると説もあるようです。 ヨーロッパのカフェの言葉を借りれば「独自の社会的目的をはたすと、もはやその必要がなくなった」の例えなのでしょう。但し、社会的要請ではなく、水野自身の判断であったことがヨーロッパのカフェとは異なるところです。店主がパウリスタに一番心引かれるところでもあります。

  パウリスタが誕生した1911年(明治44年)に、カフェ・プランタンとカフェ・ライオンが相次いで開店しています。こちらは、コーヒーはかたちだけのお酒中心で女給さん目的のカフェです。現在のクラブやカフェバーの原型です。価格はパウリスタに比べ倍であり、学生、文士、会社員、女性と殆どの大衆が集ったパウリスタとは違い排他的なものでした。

  水野が経営から手を引いたパウリスタは、やはり排他的なものに変容していきます。プランタンやライオンのように風俗化していくことになります。短すぎる日本初のカフェの謳歌でした。しかし、大正ロマンの代名詞にたとえられるまでの影響を与えていました。  その後、昭和46年頃からの爆発的な流行をみせたコーヒー黄金時代までの間、本来のカフェの姿は消えることになります。当店が開店したのもこの頃で、パウリスタ以来随分と長い間、日本にはカフェは存在しなかったことになります。

  では、何があったかというとコーヒーに取って代わったクラブやバーが台頭してくることになります。現在、カフェバーなるものがあります。これは、多分カフェとバール(バル)を組み合わせたものだと思います。店主は、カフェとバールはまったく同じ業種であると理解しています。 つまり、日本人は日本の本来のカフェ、パウリスタは完全に忘れさりカフェのイメージはプランタンなどのものが引き継がれているようです。

  ただ、完全なくなったわけでなく(ここもヨーロッパと似ていますが)喫茶店として数は少なくとも生き残る店もありました。


━━━復活できなかったカフェ━━━

  パウリスタが姿を消した後、昭和4年になり(この年はアメリカでは、禁酒法がありコーヒーが爆発的に台頭します。「暗黒の木曜日」の1929年です。)星 隆造がサンパウロ州コーヒー局と契約しブラジルコーヒーの専門店を展開することになります。「カフェ・ブラジレイロ」です。  このカフェ・ブラジレイロが刊行した小冊子が「ブラジレイロ」後に「前線」です。「コーヒーハウス派文芸誌」、「珈琲党文芸誌」として多くの文士の作品を扱うことになります。ヨーロッパのカフェが歩んだ道と同じく、一見してカフェ復活の兆しのように見えますが、実は排他的に変化したカフェの姿だったのです。特定の人間、文壇形成の場でしかなかったのです。このブラジレイロがコーヒーを特別の飲み物、芸術や文学などの特別な感覚でコーヒーをオブラードで包んでしまったようです。コーヒーは似非文化人達が飲み楽しむ特別な飲み物になってしまいました。当然そうしたことに憧れをもつ人達によって引き継がれていきます。

  コーヒーは復活したのでしょうけど本来のカフェの姿は復活できなかったと店主は理解しています。この感覚が現在でも残っています。あまりこの辺を言い過ぎるとするといろんなところから批判がきそうなのでこの辺で(^^;;

  
   長すぎてみなさんの興味が薄れてきたのでは ? そろそろまとめに入りた いのですが(^^;  次回は、昭和のコーヒー黄金時代までのお話とまとめ のお話をしたいと思います。もし、次号でまとまらない時は年越しになる かもしれません。mm(__)mm 次回からは、店主のカフェに対する言いたい放題です。(^^;;





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■⊃     【琥珀の媚薬】 〜 コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(7)〜  
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■⊃ 【 琥珀の媚薬 】〜 コーヒー雑談  
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■⊃ 【日本のカフェ】(7)
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  11月25日号で、後半レイアウトが崩れていました。お詫びいたします。

 前回まで、パウリスタの凋落そして昭和初期のブラジレイロの台頭をお話しました。大正10年4月の「中央文学」で特集「文芸の東京」の中に久米末雄の文章によると

  カフェーの給仕人は男と定っているものを、女ならでは・・・なんとかの我が国人の情風習として、どこでも女の給仕人を置くそのなかで、このパウリスタのみは男を使用している。然かも常に立錐の余地なき大繁昌は、万事が手軽で安値なところに基因しているのだろう。
---------------

  客は千差万別で、雑然粉然たる光景は、カフェのなかでも此処のやうなのは余りない。----

  さて、今回は昭和から現在までのカフェの姿です。  

━━━風俗のイメージが定着したカフェ━━━

  18世紀のヨーロッパのカフェの姿でも見え隠れするのが、大衆が集う場所においては男女の問題が出てきます。(^^; そして、必ずいかがわしいものを商売にするものが出てきます。これは、やはりコーヒーは媚薬なのでしょうか ? 昔も今もかわらないようです。そうしたいかがわしいものから生まれた文学も多くありますよね。店主は好きです。(^^;;

  よけいなことを言いました。パウリスタの凋落以来カフェのイメージは、酒と女性ということになりました。キスガールなるものが出現してキスの販売をはじめたところもありました。そうなると、いよいよ国に規制が入ることになります。昭和7年(1933年)警視庁のカフェ、喫茶店などの特殊飲食店営業取締規則が公布され、翌年1934年には、学生、未成年者の出入りを禁止されることになります。

 店主の年代でも学生時代は喫茶店に入るのは人目を気にした時代もあります。この名残の意識があったのでしょう。


━━━戦争の影━━━

  ヨーロッパのカフェの場合、カフェの誕生そして排他的になり凋落、新しい職種の誕生そして再びカフェの台頭と繰り返します。日本の場合は、パウリスタ以来、昭和に入りブラジレイロによって復活の兆しがあったものの、カフェの精神は引き継がれませんでした。そして、戦争の色濃くなった背景にコーヒーの輸入が急激に減り、輸入制限が始まります。1942年にコーヒーの輸入が完全に杜絶します。


━━━コーヒー黄金時代━━━

  昭和30年にコーヒーの輸入が再開され、戦後の復興とともに都市文化に欠かせない意識の場として復活していきます。そして、昭和40年代にはいり「コーヒー専門店」が爆発的な流行をみせることになります。店主の学生時代です。それまでは、純喫茶なるものがあり数は少ないものカフェのイメージを残しつつありました。しかし、そこに入るのは不良といった風潮が以前ありました。

  それが、誰もが集うことができる場所として、コーヒー専門店が一騎に全国に広がりました。ブラウントーンの木目を基調にオープンカウンターにサイホンで抽出と画一的な形態です。この時代コーヒーを飲むにしてもインスタントを飲むぐらいでコーヒーを淹れて飲むことなどは一般的ではありませんでした。これが200円以下で飲めたわけです。

  これが切っ掛けに大衆が集う場所として復活したわけです。この時代には、パウリスタの精神など忘れられていましたが、低価格でコーヒーを飲むという行為の新しさとそこに集う目的ということが、パウリスタの時代を彷彿させました。
 現在、40代、50代のみなさんは、こうしたコーヒー専門店に毎日日課のように通い新聞や雑誌を読み、仲間と世の中の良し悪しことを日暮喋べり楽し時を過ごしたことと思います。(徒然草風になりました(^^);)  やはり、始まりは低価格のコーヒーでもそこに集うにことが目的であったわけです。学生、会社員、あらとあらゆる職種の人達が集い、人の悪口、ゴシップの情報交換(^^; 商売の話、密会、政治の批評などなどです。
 まさにヨーロッパの18世紀頃のカフェの姿に似ていませんか ?


━━━そして現在まで━━━

  昭和50年、ブラジル霜害によってコーヒー価格が高騰します。これが切っ掛けになりコーヒー専門店は排他的に変化していきます。コーヒーが普及しことと、集う場所としての意味が薄れてきたことがコーヒー専門店の衰退につながっていきます。

  そして現在、コーヒー専門店の主流だった小型店舗は姿を消し、数少なくなった店は16世紀後半にイタリアのベネチアに始めてできたカフェからの歴史の低価格、都市大衆の集う場所、そして排他的、衰退の流れの中に身をおいています。しかし近年、その流れは多様化した大衆の意識に戸惑っています。すでに懐古の世界でしかなくなり、興味の視線でしかカフェは評価されなくなりました。

  その小型店とは裏腹にイタリアンカフェなるチェーン店の流行です。いわゆるカフェブームなのでしょう。この長い連載の間に少し下火になってしまいました。(^^; 低価格はやはり歴史が証明する繁盛の秘訣なのかもしれません。でも、ちょっと待ってください。イタリアンカフェ、エスプレッソカフェ ? これってやはりイタリアを中心にしたヨーロッパのスタイルなんでしょうね。?  スタバのテイクアウトに使われている容器、あれって日本の缶コーヒーの真似じゃない ? 良く見てみると全然ヨーロッパ的ではないですよね。そうです。アメリカンスタイルなんです。(^^; へそ曲がりの店主はついこんなことを思ってしまいます。
  こう云ったチェーン店は、低価格、人が集まることではカフェなのですが、人が集う場所としての役割は果たしていないようです。最近、店主の友人がエスプレッソマシーンではなく店事態が機械でコーヒー店マシーンのようだと言っていました。そうなんです。投資そして回収型の機械化した店だと思うのです。アメリカそのものですね。アメリカ信奉者のみなさんがファションや興味本位で立ち寄る場所なのでしょう。イスラム教徒みたいなこと言い出しましたが、つい皮肉ってみたくなる店主です。それにしても良く考えつくしたスタバだと感心もしてまいます。すこし、悪口を言い過ぎたかな。m(--)m

  次号では、この辺の謎解きと当店28年のコーヒー事情を加えながら店主独自のカフェ像をお話して終わりにしたいと思います。

  ただ、こうした流れであってもカフェの流れが繰り返されてきたことを思うとき、すでに新しいカフェの時代がすぐそこに来ているような予感がする店主です。

  駆け足でここまで来てしまいました。長い「日本のカフェ」でした。いいかげん飽きて削除されているかもしれませんね。(--; 今年で完結させたかったのですが年越しです。2002年の始まりで完結したいと思います。

  次回、2002年初めでカフェのまとめです。年初めの言いたい放題です。
 










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┏━ 目次━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
■⊃     【琥珀の媚薬】 〜 コーヒー雑談
┃   〜「日本のカフェ」(8)〜 新春言いたい放題 (^^);
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■⊃ 【 琥珀の媚薬 】〜 コーヒー雑談  
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■⊃ 【日本のカフェ】(8)
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  今年のお正月は例年より長いお休みをとられたみなさんも多いのではないでしょうか。七草
粥も過ぎていよいよお仕事も本腰といったところでしょうか。  さて、昨年始まった「日本のカフ
ェ」も年越しとなり長い連載になってしまいました。判りにくいものになってしまったと反省しきり
です。  今回で、店主の独自のカフェ像をお話して締めたいと思います。


━━━カフェの鏡、パウリスタ━━━

  「笠戸丸」そして「カフェパウリスタ」、「水野 龍」から始まりヨーロッパのカフェと進め、前回まで現在の日本のカフェを駆け足でお話しました。 ヨーロッパ、日本を問わずコーヒーが伝播してそれ程年月がたたない時期に必ずカフェが誕生
したのはお解かりいただけたと思います。そして、カフェ誕生の理由とは別にカフェは、大衆が集う場所となり、そのカフェに集った人々によって世論形成の場であったり、情報交換の場であったり、批評の場であったり、様々な新しいコミュニケーションの場を作り出しました。 当然のことながら、その役割が特定の人間のものになった時、排他的になりカフェの意味は薄れたり、新しい職種に変化したりしてきました。そして、再びカフェの必要性が出てくると人が集いだし同じこと
を繰り返します。 この繰り返しがカフェの本質です。ただ、いつの時代もそこにはコーヒーという飲み物があり、その場所を高める活性剤の役割でした。

  パウリスタの場合も、ブラジルの大地に関わりをもった水野龍によって設立され、それを待っていたかのように人々が集い、集った人々によって大正ロマンを形成していきました。そして、その社会的役割を果しその必要性が薄れたとき、水野はパウリスタから手を引きます。アッという間の出来事でした。水野はヨーロッパのカフェの歴史を理解していたのでしょう。
 
  まさに、世界的にみてもカフェのことを知り尽くした日本で始めて、そして最後のカフェであったと店主は思っています。


━━━店主のカフェ像━━━

  日本のコーヒー黄金時代からつい最近バブル時代まで、当店では三々五々学生が集まり午後から閉店を過ぎても帰ろうとせずに、つまらないことから 議論(子供の喧嘩)が始まり、片割れが自分の間違いに気がついても非を認めず、ひたすら屁理屈でごまかし逃げようと、相手はそれを判ってとにかく非を認めさそうと、終わらない議論が延々と続くのです。店主が掃除を始めて邪魔だと言っても意に介しません。挙げ句の果てには、こんな店に二度と来ないと捨て台詞。何故か店のせいになってお金も払うのも忘れ帰って行きます。
  そんな姿を勤め帰りの一人の女性が当たり前のようにうるさい顔もせず、それがバックミュージックのように勤めの疲れに一息を入れています。 その横には、やはり勤め帰りの女性二人が上司の悪口に花が咲いています。また、ここを隠れ家やと決め込み居座る暗そうな学生一人。それを囲むよ うに頭の悪そうな予備校生の集団が今日出会った女性に想像を膨らませています。
  これらすべての人達が毎日集い、この店を作り出していました。そして、ここに集う人達によってこの店のルールが出来上がり、それは時折集う人達によって変化しました。集う人達にとって都合の良い場所でした。都合の良い場所でも決して勝手な自己主張は誰一人ありませんでした。 殆どの人がコーヒーの味などはどうでも良かったのです。ここにコーヒーがあり集う理由になりさえすれば。

  集う人達によって店が形づくられる時代でした。それが、バブル前後から客層が一変してきます。この場所にコーヒー一杯以上のサービスを要求し始めます。もとより、都合の良い場所ですから当たり前ではあるのですが、高級ホテル並みのサービスを言われてもと、戸惑う店主です。 誰が決めたか、目に見えるサービスが接客の鏡と言われ、マニアル化したサービスが心地よく思われる時代。これは、カフェとは違う業種だよなと思う店主です。
  そして、現在は貧しいグルメブームです。カフェは、美味しいコーヒーと美味しいケーキと食べ物。ゆっくりと長い時間我がままに過ごせ文句も言われない。高級レストラン並み。これがカフェの鏡 ? グルメ情報誌に載っていなければカフェではなく、味噌も糞も一緒のインターネットの情報掲示板に乗っていなければ、これまたカフェでない。珍しければ何でもあり。 店主は思うのです。バカヤロ !  どこのカフェだ !!  お金とサービスを交換し、その付加価値の良し悪しを問われる時代。あぁ、嫌だな ! まるでアメリカ人みたいなサービスを自己主張してみせる10代、20代のバブルボケした若者。そんなにアメリカのサービスがよければ、世界一封建的なアメリカに行ってK.K.K 団にでも襲われてしまえ !

  少し言い過ぎですね。(^^); そうは言っても、裕福な時代にはカフェは似合いません。お気づきの方も居られるとおもいますが、不景気の底にあるときカフェは生まれ育ちます。そして、好景気とともに姿を消し姿を変えます。現在は、不景気でも裕福な時代ですからカフェの必要性はないのでしょう。

  正月に息子と映画を観てきました。ハリー・ポッターと賢者の石です。夢があって楽しい映画でした。すっかりハリー・ポッターのファンになってしまった息子が本を読みたいとせがまれ三巻まで親ばかで買いました。夢中で読んでいる息子を見てそんなに面白いのかとこっそり読んで見ると、著者の紹介文にJ.K. ローリングの貧しかった時代、エジンバラのコーヒーハウスで書いたものだそうです。これなんだよなと、一人勝手に解釈してしまった店主です。
 想像ですが、サッチャー時代の失業者のあふれるイギリスで不景気から生まれた作品かもしれないとひどく納得してしまいました。ひょっとして、J.K.ロ ーリングは、17世紀前後のコーヒーハウスの姿を思い浮かべたかもしれないと、 そう思うとすっかり店主もハリーポッターのファンになってしまいました。16世紀、17世紀、日本でも茶の文化が生まれました。ヨーロッパでも日本でも夢多い時代です。店主はこの時代が大好きです。 ハリー・ポッターが魔法の世界で入学するために買い物をする16世紀後半を思わせる街並み、良かったです。つい、コーヒーハウスがないか探してしまいました。

  貧しい時代、何故か人々が集う場所があって協力しあう。日本のちょっと前の村社会や井戸端会議がそうでした。その欧風版がカフェです。現在は、カフェに行くのに理由があります。何が美味しいとか雰囲気が変わっているとか目的を持って来店されます。それは当然です。でも、ちがうんだよなと、カフェは集う場所で生活の一部でなければなりません。そして、カフェの雰囲気と価値はそこに集った人々が作り出すものです。それがカフェです。

  店主がこんなことを言いだすととおかしいと思われる方も居られると思いますが、コーヒーが美味しいのとカフェとは別なものなのです。みなさんもカフェを何か郷愁の思いのイメージで見ていませんか ? 店主もそうです。
 そこに集ってみたい気持ちはあっても実際はそのような場所は、今はどこにもないのです。

  長くなりました。みなさんのカフェのイメージは如何でしょう ? まだまだカフェのお話をしてみたいのですけれどこの辺で幕です。また機会があれば形を変えてお話させてください。 もういいと言う声が聞こえてきそうですが。(^^);


  さて、次回からは随分前にも連載しましたが、コーヒーの抽出方法を視点を変えて説明してみたいと思っています。beans倶楽部 のみなさまも随分増えて、コーヒ抽出の質問も多くなりましたので再度挑戦したいと思います。